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とある訃報を受けて…
「死」について考えた。ちょっと誤解していたことがあったかもしれない。
特に突然死じゃなくて病に侵されて病床で死を悟った場合。
自分が「あっ、ここまでか」と死を受け入れたら、きっと自分の死に対して大袈裟に扱われることは「いや、そんなのいいからいいから!」になるんじゃないかと思う。
あらたまってお酌に来るのを断って手酌するような、そんな感覚。
当人にとって自分が死ぬことはすでに既定路線なので大した問題ではなく、むしろ居なくなることについて特別扱いさせてしまうことを危惧するんじゃないだろうか。
思い返せば母もそうだったように思う。
なので、よく死にゆく人が「自分のことを忘れないでほしい」って願望を持つと思うけど、それについてちょっと誤解をしていたかもしれない。
「亡くなった後もずっと自分が生きていた時のことを覚えていてほしい」っていう意味ではなかったのかも。
そうじゃなくて、「自分がこの世に居なくなったことなんて気にせず、たまに思い出しては想いを馳せる、普通の旧友や故郷の家族のような存在でずっと居させて欲しい」の意味じゃないかと気がついた。
つまり「忘れて欲しくない」の真意はきっと「取り立てて区切りみたいなものを作らず、居た時と居なくなった後に変化を作って欲しくない。これまで通りで居させてほしい」だ。
これから居なくなる人にとって、それが一番の幸せなんじゃないかと思った。
最後の言葉に衝撃を受けた。
やっぱりすごい人だ。逆立ちしてもかなわない。
【2/27追記】
ゆゆしいできごとしんぱいはない「なみだのきれいなにじをもっといきにうつすなぎさ」
January 10, 2020 | 固定リンク | ()