この3年くらい、このテーマを考えることが多い気がします。
まだ全然まとまってないのでブログするようなものではないんだけど…
特にたいしたことも、新しいことも書いてないです。
【秋葉原無差別殺傷】人間までカンバン方式
を読んで、自分の記事の、
ミキ姉ちゃんの就職活動と挫折とその後
を思い出しました。
この2つの違いは何なんでしょう。根が深すぎて、今の僕には特に伝えるべき見識はないし、今思ってることすらうまくいえないのですが、どんな状況下にあっても自分の意識や言動や生活に工夫を凝らして、今と違うモノの見方はできる、という知識を知っておくと、気が楽になったり、自分を認めることができたり、いつもと違う新しい言動を取ることができるのではないか、ということを考えています。
もちろんこれは全ての状況下でできることではありません。状況のただ中にいると、それが圧倒的な現実なわけだから、「そんな綺麗ごと言ったってしょうがないじゃないか!」ということになるのも判ります。自分自身も何度もそういう目に遭ってるし、今だってそうじゃないと断言などとてもできません。また、当たり前ですが客観的に本当にひどい状況は確かに存在します。
ただ、別の見方があるのかもしれないと頭で考えることはできます。そして7つのナントカの「影響の輪」じゃないけど、そういう視点で自分の生活や意識を見渡すと、何か違う気分や可能性を発見できるのではないか、そしてそれらはどんなにささやかに見えていても、実はドアで、次につながる道なのではないか、たとえば「孤独」という状況ひとつとっても、みたいなことを考えたり考えなかったり、それを実践してみたり忘れてみたり。
もちろんそんなことで、例えば悲しみや悲しさは消えません。万人にも当てはまらないかもしれません。この発想自体が中2病的で甘ちゃんな香りもします。そして何よりも、雇用流動性というか今の雇用をめぐる社会状況は、個々人の意識の問題というだけで片付けてはならない構造的な病を抱えていることは承知しています。少なくとも日本は「セーフティーネットがあるから安心してチャレンジできる社会」では全くありません。
でも違った角度は確かに違った何かを生むかもしれないとも思うのです。ペシミズムよりもオプティミズムで何かできることもあるかもしれないし、総論と自分はどうか、とかあなたはどうか、という各論とは別かもしれないと考えてもいいかもしれない気もするのです。
そして、この、「自分の意識や言動や生活に工夫を凝らして、今と違うモノの見方をする」は、たぶん実践するためにはさまざまな知識やコツが必要なんだと思うのです。単に力んで思うだけでは、すぐに「やっぱダメだった」とポキッと折れてしまうのではないでしょうか。禁煙やダイエットのように。
視点移動で現状を再構築する技術とでも呼べる何かを、人生のできるだけ早い段階で知っとくか知らないかでは、だいぶ違う気がします。
学校では教えてくれない知識ですが。